海外へ行く前も、海外生活後も丸亀製麺だった。羽田空港で思い出した日本の日常

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道東旅行の帰り、羽田空港で丸亀製麺のうどんを食べました。

特別なメニューを選んだわけではありません。むしろ、旅行最後の食事としてはかなり普通です。

それでも、うどんを食べながら、初めて海外へ行く前にも丸亀製麺を利用したことを思い出しました。

同じ丸亀製麺なのに、海外生活前と海外生活後では、一杯のうどんの見え方が変わっていました。

アメリカでは、素うどんに近いものが日本円にして約3,000円だった記憶があります。しかも、私はあまりおいしいと感じませんでした。

だからといって、帰国後の日本で何もかも安く感じたわけでもありません。私が日本を離れている間に物価は上がり、丸亀製麺も記憶にあるほど安くはありませんでした。

海外と比べれば安い。でも、以前の日本と比べれば高い。

「安いけど、高い」という、少し割り切れない感覚が残りました。

この記事では、道東旅行の最後に食べたうどんをきっかけに、海外生活前後で変わった日本食への感覚を振り返ります。

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道東旅行の最後に、羽田空港で丸亀製麺へ入った

釧路空港から羽田空港へ到着した後、私は丸亀製麺へ入りました。

釧路空港では食事を済ませていませんでした。旅行中には北海道らしいものも食べましたが、最後に選んだのは、ご当地グルメでも豪華な空港飯でもありません。

うどんでした。

帰国後、丸亀製麺へ入ったのは初めてだったかもしれません。ただし、正確にいつ以来だったのかまでは覚えていません。

注文を済ませてうどんを食べているうちに、私はふと、初めて海外へ行く前のことを思い出しました。

そういえば、あのときも丸亀製麺を食べた。

店舗や注文したメニューは覚えていません。それでも、海外へ行く前に食べたことと、そのとき緊張していたことは残っていました。

今回、羽田空港で丸亀製麺へ入ったのは、釧路・根室・納沙布岬を巡った2泊3日の道東旅行の帰路でした。車を使わず花咲線とバスで巡った旅程や、約10年越しに納沙布岬へ到達した経緯は、「10年越しで納沙布岬へ。釧路・根室を巡った2泊3日の道東鉄道旅」で整理しています。

10年越しで納沙布岬へ。釧路・根室を巡った2泊3日の道東鉄道旅

初めて海外へ行く前にも、丸亀製麺を食べていた

初めて海外へ行く前の食事について、細かいことはほとんど覚えていません。

どこの店舗だったのか。何を注文したのか。出発の何時間前だったのか。順番も含めて曖昧です。

覚えているのは、丸亀製麺で食べたことと、海外へ行く前で緊張していたことです。

当時の私は、海外へ行けば人生が大きく変わるような気持ちを持っていたのだと思います。

自由の国で、周りをあまり気にせずに暮らせる。英語も話せるようになる。帰国後は、もっと海外へ行きたい人間になっている。

少なくとも、海外へ行った後に、日本のうどんをこんなふうに考えるようになるとは思っていませんでした。

初めて海外へ行く前に食べた丸亀製麺は、私にとって特別な日本食ではありませんでした。

出発前に食べた、いつもの外食の一つだったのだと思います。

だからこそ、詳しく覚えていないのでしょう。

当たり前に選べるものは、失う前には記憶へ残りにくいのかもしれません。

アメリカでは、具の少ないうどんが約3,000円に感じられた

アメリカで暮らしていたときにも、うどんを食べたことがあります。

記憶では、具はほとんどなく、素うどんに近い内容でした。それが当時の感覚で、日本円にして約3,000円でした。

正確な価格、為替、店名、メニュー名については、当時の写真や記録を確認しなければ断定できません。

ただ、「素うどんのようなものが約3,000円」という印象は強く残っています。

しかも、私はあまりおいしいと感じませんでした。

もちろん、アメリカで日本食を提供するには、日本と同じ条件ではできないと思います。材料や人件費、店舗の事情も違うでしょう。

その店だけを見て、アメリカのうどんや日本食全体を決めつけるつもりもありません。

それでも、日本では気軽に食べていたものへ、それだけのお金を出すことには戸惑いました。

高いから食べられないというより、「うどんを食べたい」と思っただけで、店や値段を意識しなければならない距離を感じました。

日本にいた頃の私は、うどんを文化として意識していませんでした。

食べたいときに近くの店へ行き、手の届く価格で食べる。それが普通でした。

離れてみて初めて、その普通が日本食の価値だったと気づきました。

日本食の価値は、安さより身近さにあった

海外生活後に私が感じた日本食の価値は、単純な価格の安さだけではありません。

食べたいと思ったとき、無理をせず普通に選べること。

これが一番大きかったのだと思います。

アメリカでうどんを食べようとすると、まず店を探します。見つけても、価格を見て本当に食べるか考えます。食べた後には、日本で食べていたものとの違いも気になります。

日本では、そこまで考えません。

駅や空港、ショッピングモールなどで店を見つけ、食べたければ入る。食べ終われば、そのまま次の予定へ戻ります。

うどんを食べることが、わざわざ計画するイベントではなく、日常に組み込まれています。

海外では、日本食を食べること自体が少し特別な行動になりました。日本では、特別扱いする必要がありません。

身近にあるとは、値段が安いことだけではなく、食べるまでの心理的な距離が短いことなのだと思います。

これは、うどんに限りません。

白いご飯、味噌汁、魚、季節の食材。日本にいた頃は、わざわざ日本文化として意識していなかったものが、海外では急に遠くなりました。

道東旅行では、住んでいる人にとっての日常が、外から訪れた自分には特別に見えることも考えました。「釧路に何しに来るの?」という趣旨の言葉から、旅先の日常をどう受け取ったのかは、「誰かの日常は、誰かの旅になる|花咲線で聞いた『釧路に何しに来るの?』から考えたこと」で整理しています。

誰かの日常は、誰かの旅になる|花咲線で聞いた「釧路に何しに来るの?」から考えたこと

日本に住んでいると、日本食も鉄道も、一人で店へ入れることも日常です。

しかし、日常の価値は、その中にいるときほど見えにくいのかもしれません。

海外へ行けば、もっと海外を好きになると思っていた

海外へ行く前の私は、海外生活を経験すれば、もっと海外を好きになると思っていました。

英語が流暢になり、世界一周旅行へ行きたくなる。日本より自由な暮らし方を知り、帰国後も海外志向の人間になる。

実際には、私の英語力は想像したほど伸びませんでした。

毎日のスモールトークにも疲れました。話さないと何か問題があるように見られる感覚もあり、私にとっての自由とは何なのかを考えるようになりました。

食事についても、日本にいた頃には意識しなかったことばかりでした。

うどんが高い。日本食が身近にない。季節の食材で季節を感じる機会も少ない。

海外にいるからこそ楽しめた食事もあります。アメリカで食べたものをすべて否定するつもりはありません。

それでも、私は海外生活を経験した後、日本を以前より好きになりました。

海外へ行ったのに、海外をもっと好きになるのではなく、日本へ戻ってきたことに安心した。

当時は、それを少し後ろめたく感じる部分もありました。

海外研修へ行ったのだから、英語力が上がり、海外で活躍したいと言う方が成長したように見えます。

日本食がいい。日本の暮らしが落ち着く。日本へ帰りたい。

そう感じることは、海外まで行ったのに退化したようにも見えました。

海外へ行く前に想像していた自由と、アメリカで実際に感じた人間関係の距離感は同じではありませんでした。毎日のスモールトークに疲れ、日本のお一人様文化へ安心するようになった経緯は、「アメリカへ行けば自由になれると思っていた。でも私が欲しかったのは『人と距離を取る自由』だった」で詳しく振り返っています。

アメリカへ行けば自由になれると思っていた。でも私が欲しかったのは「人と距離を取る自由」だった

海外生活後、日本を好きになったことは退化ではなかった

今は、海外生活後に日本を好きになったことを、単純な退化とは考えていません。

海外へ行って、自分に合わないものも分かりました。

英語力や海外での能力を十分に身につけたうえで「日本が好き」と言えたなら、もっと説得力があったのにとは思います。

アメリカで一年暮らし、英語も完璧になって、それでも日本を選んだと言えた方が格好よかった。

実際の私は、アメリカ生活に疲れ、最後には逃げるような感覚も持ちながら帰国しました。

だから、きれいな成功体験にはできません。

ただ、海外へ行かなければ、自分にとって日本の何が大切なのかは分からなかったと思います。

  • 食べたいときに日本食を普通に選べること
  • 鉄道で一人旅ができること
  • 季節の食材で季節を感じられること
  • 必要以上に話さなくても過ごせること
  • 一人でいることが特別扱いされにくいこと

私にとっては、こうした日常の方が、分かりやすい豪華さより大切でした。

日本を好きになったことは、世界を知らない状態へ戻ったのではなく、自分に合う場所を少し理解できたことだった。

今は、そのように考えています。

海外へ行った人が、必ず日本を好きになるとは思いません。海外の方が自分に合う人もいるでしょう。

大事なのは、海外志向か日本志向かを競うことではなく、自分が無理をせずに暮らせる場所を知ることだと思います。

海外より安くても、日本の物価高を気にしてよい

アメリカで素うどんに近いものが約3,000円だった記憶を思えば、日本の丸亀製麺は安く見えます。

しかし、羽田空港で注文したとき、私は「やっぱり日本は何でも安い」と感動したわけではありません。

思っていたより高い。

これも正直な感想でした。

私が日本を離れている間に物価は上がり、以前の記憶と比べると、気軽な外食も高くなっていました。

海外より安いことと、日本で暮らす人が物価高を負担に感じることは、別の話だと思います。

アメリカより安いのだから文句を言ってはいけない、とも思いません。

旅行者や海外生活経験者の目線では安く見えても、日本で働き、日本円で給料を受け取り、日本で生活していれば、以前からの値上がりは気になります。

海外より安い。でも、昔の日本より高い。どちらも本音です。

日本食を身近に食べられるありがたさと、その値段が上がったことへの不満は両立します。

「ありがたいのだから高くても気にするな」と無理に納得する必要はありません。

安い国と高い国を比べ、どちらか一方の感覚だけを正解にするより、自分が実際に感じた違和感を残しておきたいと思います。

同じうどんでも、海外生活前後で見え方が変わった

初めて海外へ行く前に食べた丸亀製麺について、私はほとんど覚えていません。

店舗も、メニューも、値段も曖昧です。

それは当時、うどんをいつでも食べられることを、特別な価値だと思っていなかったからかもしれません。

海外生活を経験した後、道東旅行の帰りに羽田空港で食べた丸亀製麺は、ただの一食では終わりませんでした。

アメリカで食べた約3,000円のうどんを思い出し、日本食が日常にあることの価値を考え、同時に日本の物価も高くなったと感じました。

同じ店で、同じようにうどんを食べても、見えているものは以前と違います。

変わったのは、うどんではなく自分でした。

海外へ行く前の私は、日本食をいつでも食べられることを記録しようとは思いませんでした。

海外生活後の私は、普通にうどんを食べられたことから、日本で暮らす意味まで考えています。

少し大げさに見えるかもしれません。

でも、旅や海外生活で変わるのは、大きな人生観だけではないのだと思います。

一杯のうどんの値段や、近くに店があることや、一人で静かに食べられること。

そのくらい小さな日常の見え方が変わることもあります。

海外へ行く予定があるなら、有名な日本食だけでなく、普段何気なく食べているものも記録しておくとよいかもしれません。

帰国後、以前は普通だった一食が、自分の変化を教えてくれることがあります。

私は海外へ行く前、日本を離れれば、もっと海外を好きになると思っていました。

実際には、日本のうどんを普通に食べられることへ安心する人間になって帰ってきました。

それが成長だったのか、逃げだったのかは、今でもきれいに決められません。

ただ、自分に合う生活を知るためには、一度離れてみることにも意味があったと思っています。

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