24時間テレビのチャリティーマラソンを見ても、私は昔からあまり感動できませんでした。
ランナーが暑い中を走っていることは分かります。大変な練習をして、本番でも苦しい思いをしているはずです。それでも、周囲が期待するような感動が自分の中から出てきません。
「感動できない私は、薄情な人間なのではないか」
小学生の頃には、そんなことまで考えていました。
この記事では、24時間テレビやランナーを一方的に批判したいわけではありません。長年感動できなかった自分のモヤモヤを、今の自分なりに考え直します。
結論:マラソンに感動しなくても薄情ではないと思う
今の私は、24時間テレビのマラソンに感動できなくても、それだけで薄情な人間ではないと思っています。
同じ出来事を見ても、どこに心が動くかは人によって違います。
私は甲子園やオリンピックを見て、鳥肌が立つほど感動することがあります。ノンフィクションのドラマを見て、涙が出ることもあります。
つまり、私に感情がないわけではありません。チャリティーマラソンという企画に、うまく感情移入できないだけです。
ランナーの努力を認めることと、自分が感動することは同じではありません。敬意は持てても、感動できないことはある。今なら、そう切り分けて考えられます。
私は子どもの頃から「感動できない自分」に悩んでいた
チャリティーマラソンは毎年のように話題になります。
誰が走るのか。時間内にゴールできるのか。最後には出演者がランナーを迎え、番組全体が感動的な雰囲気に包まれます。
ところが、私はその流れにどうしても入れませんでした。
周囲が感動しているように見えるほど、「なぜ自分は何も感じないのだろう」と不安になります。子どもの頃は、自分だけ人間の心が欠けているような感覚さえありました。
感動することが正解で、感動できない自分は間違っている。
当時の私は、無意識にそう思い込んでいたのだと思います。
私がチャリティーマラソンに感動できない理由
なぜ走るのかより、苦しさが前に見える
私は、人が努力する姿なら何でも感動できるわけではありません。
「なぜ、その人が挑戦するのか」「その挑戦で何を伝えたいのか」が見えたときの方が、心が動きます。
チャリティーマラソンを見ると、私には走る目的よりも、暑さや疲労に耐える苦しさの方が先に見えてしまいます。
そのため、感動するよりも「そこまでして走らなくてもよいのでは」「無事に終わってほしい」という心配が勝ちます。
苦しいことをやり切ったから感動する、という型に私はうまく乗れないのだと思います。
感動を期待されると、少し引いてしまう
自然に感情が動く場面では、私は素直に感動できます。
しかし、「ここは感動する場面です」と強く示されると、一歩引いて見てしまうところがあります。
ゴール時間が番組の終盤に近づき、出演者や観客が一体となって迎える構成を見ると、私はランナーよりも番組の作り方が気になってしまいます。
これは番組が悪いというより、私の見方の癖なのでしょう。
皆が同じ方向へ感情を動かしているときほど、「本当に自分もそう感じているのか」と考えてしまう。昔から私は、周囲に合わせて感情を作ることが苦手だったのかもしれません。
真夏に走ることへの心配が勝つ
夏の長距離走を見ると、まず健康面が気になります。
番組側が安全対策を行い、本人が納得して挑戦しているとしても、見ている側として心配が完全に消えるわけではありません。
特に、普段から長距離競技をしているわけではない人が走る場合は、感動より「身体は大丈夫なのか」と考えてしまいます。
心配しながら見る企画を、私は純粋な感動として受け取りにくいのだと思います。
2019年に社員であるアナウンサーが走ったときに感じた疑問
この記事を最初に書いたきっかけは、2019年のチャリティーマラソンでした。
この年は複数人で走る形式となり、その中には番組を放送する会社のアナウンサーも含まれていました。
当時の私は、「会社員が仕事に関係する企画で長距離を走ることを、どう考えればよいのだろう」と気になりました。
ただし、本人がどのような経緯で参加を決めたのか、私は知りません。外から見ただけで、強制されたと決めつけることもできません。
今読み返すと、当時の記事では想像を少し広げすぎていました。
分からないことは、分からないままにしておく。そのうえで、会社員として働く自分がなぜ引っかかったのかを考える方が大切だったと思います。
私が気になったのは、本人の事情ではなく、仕事と個人の挑戦の境界が見えにくかったことでした。
テレビを持たなくなって、番組との距離も変わった
現在の私はテレビを持っていません。そのため、24時間テレビを最初から最後まで見ることもありません。
それでも夏になると、ランナーの発表やゴールの話題はネット上に流れてきます。そのたびに、子どもの頃に抱いた「感動できない自分はおかしいのか」という疑問を思い出します。
私がテレビを持たなくなった経緯は、「テレビは本当に必要?一人暮らしで『自分には不要』と気づいた話」にまとめています。

テレビから距離を置いたことで、番組を好きか嫌いかの二択で考えなくなりました。
見たい企画は見る。合わない企画は見ない。それでよいと思えるようになりました。
感動しないことと、ランナーを否定することは別
この記事で誤解されたくないのは、走っている人を否定したいわけではないということです。
本人に伝えたい思いがあり、納得して走っているなら、その挑戦は尊重したいです。無事に完走してほしいとも思います。
ただし、尊重したからといって、自分まで必ず感動しなければならないわけではありません。
- 努力は認める
- 安全を願う
- 伝えたい思いを聞く
- それでも自分は感動しない
これらは同時に成り立つと思います。
感情は賛成票ではありません。相手を尊重するために、同じ感情を持つ必要もありません。
今なら子どもの頃の自分に「薄情ではない」と伝えたい
小学生だった頃の私は、テレビの前で感動できない自分に悩んでいました。
今なら、「人と違うところで心が動くだけだから、心配しなくてよい」と伝えたいです。
誰かが泣いている場面で泣けないこともあります。皆が盛り上がっているときに、一人だけ疑問を持つこともあります。
それは少し居心地が悪いことですが、無理に周囲と同じ感情を作らなくてもよいはずです。
むしろ、「なぜ自分は感動できないのか」と考えたことで、自分が何を大切にしているのかが少し見えてきました。
私は、苦しさそのものよりも、その人が挑戦する理由に心を動かされます。そして、感動することを求められるより、自分のペースで受け止めたい人間です。
まとめ:感動できなくても、自分を責めなくてよい
24時間テレビのチャリティーマラソンに感動できない私は、長い間、自分を薄情な人間だと思っていました。
しかし今は、そうは思いません。
感動できないことと、人の努力を軽視することは別です。
感動した人は、その感情を大切にすればよい。感動できなかった人は、自分を責める必要はありません。
私はこれからも、チャリティーマラソンに感動できないかもしれません。それでも、走る人の無事を願いながら、自分が感じた違和感もごまかさずにいたいと思います。



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