広島には、これまで2回行ったことがある。
1回目は一人旅だった。名古屋から日帰りで広島へ行き、原爆ドームの静けさに圧倒された。
そのときの話は、こちらの記事に書いた。

今回書くのは、2回目の広島旅行の話である。
アメリカ研修後、アメリカ人の友人と一緒に広島へ行った。友人が「広島に行きたい」と言ったことがきっかけだった。
結論から言うと、旅行全体としては楽しかった。
宮島や厳島神社は賑やかで、観光として普通に楽しめた。牡蠣を見た友人の反応も、今思えば旅行らしい文化差の一場面だったと思う。
ただ、原爆ドームと平和記念公園だけは、楽しいだけでは片づけられなかった。
普段はよく話すアメリカ人の友人が、その場所では静かになった。記念碑の前で “Good!” と言った。その意味を聞こうと思ったけれど、結局聞けなかった。
今でも、その場面が強く記憶に残っている。
アメリカ人の友人が「広島に行きたい」と言った
友人が「広島に行きたい」と言ったこと自体には、正直あまり驚かなかった。
アメリカに住んでいたとき、アメリカ人と日本の話をすると、有名な都市としてよく出てきたのは東京、京都、広島だった。
東京は首都として分かりやすい。京都は日本らしい歴史や寺社のイメージがある。広島は、やはり原爆や平和記念公園の存在が大きいのだと思う。
だから、アメリカ人の友人が広島に行きたいと言ったときも、「やっぱり広島は海外の人にも知られている場所なんだな」という感覚だった。
ただ、同時に思ったこともある。
アメリカ人の友人と広島へ行ったら、自分の感じ方は変わるのだろうか。
重い言い方になるが、アメリカは原爆を落とした側の国で、日本は落とされた側の国である。
もちろん、目の前の友人が何かをしたわけではない。そんなことは分かっている。
それでも、日本人として、アメリカ人の友人と原爆ドームや平和記念公園を歩くことに、何か普段とは違う感情が生まれるのではないかとは思っていた。
原爆ドームと平和記念公園では、友人が静かだった
原爆ドームと平和記念公園に行った。
一人で原爆ドームを見たときは、静けさに圧倒された。都市の中にあるのに、そこだけ時間が止まっているように感じた。
でも、アメリカ人の友人と行ったときは少し違った。
自分が何を感じているかよりも、友人が何を感じているのかが気になっていた。
普段はべちゃくちゃしゃべる友人だった。よく話すタイプで、こちらが黙っていても話題を出してくれるような人だった。
でも、原爆ドームや平和記念公園では静かだった。
その沈黙が印象に残っている。
一人で見たときの静けさは、場所そのものに圧倒される静けさだった。
でも、友人と一緒に見たときの静けさは、友人の沈黙が気になることで生まれた静けさだった。
これは、たぶん一人旅では感じなかった感覚だと思う。
日本人として、少し複雑だった。
でも、その複雑さをどう表現すればいいのか分からなかった。
「アメリカ人の友人はどう思っているのだろう」 「何か聞いた方がいいのだろうか」 「でも、こちらから聞くのも変ではないか」
そんなことを考えていた気がする。
記念碑の前で友人が “Good!” と言った
この2回目の広島旅行で、一番印象に残っている場面がある。
記念碑の前で、友人が “Good!” と言ったことだ。
その瞬間、意味を聞こうと思った。
でも、聞けなかった。
理由の一つは、英語でうまく聞ける自信がなかったことだ。
「今のGoodってどういう意味?」 「何に対してGoodだと思ったの?」 「ここを見て、どう感じた?」
そういうことを英語で聞く自信がなかった。
ただ、それだけではない。
仮に日本語で完璧に聞けたとしても、聞かなかったかもしれない。
なぜなら、その場で友人の感情を言葉にさせること自体が、少し野暮な気がしたからだ。
“Good!” という一言は、軽いようで、軽いだけではなかったのかもしれない。
良い場所という意味だったのかもしれない。
記念碑として大切だという意味だったのかもしれない。
ここに来られてよかったという意味だったのかもしれない。
英語特有の、深く考える前に出る相づちのような言葉だったのかもしれない。
今でも正確には分からない。
でも、その分からなさも含めて、記憶に残っている。
“Good!” の意味は、今でも分からない
アメリカ人は、武器を持って自由を勝ち取った国の人たちでもある。
一方で、現代でも銃によって命が失われることを、自国内の問題として感じることができる人たちでもある。
もちろん、これは自分の勝手な受け止め方であって、「アメリカ人だからこう感じたはず」と断定したいわけではない。
むしろ、この記事ではそこを断定したくない。
友人が何を思って “Good!” と言ったのかは、本人にしか分からない。
もしかしたら、本人もそこまで明確な意味を込めていなかったかもしれない。
それでも、自分にはその一言が引っかかった。
なぜなら、その場所が原爆ドームや平和記念公園だったからだ。
普通の観光地で “Good!” と言われたら、たぶん何も気にならなかったと思う。
「いい場所だよね」 「来てよかったね」
それくらいで終わったはずだ。
でも、広島の記念碑の前で聞いた “Good!” は、同じ “Good!” でも違って聞こえた。
その違いを言葉にできなかった。
聞こうと思ったけれど聞けなかった。
今でもその意味は分からない。
ただ、複雑な感情がありながらも、とっさに出たアメリカ人特有の “Good!” だったのかもしれない。
そして、そこを無理に深掘りしなかったことも、今となっては悪くなかったのかもしれないと思っている。
宮島と厳島神社では、観光として楽しめた
一方で、広島旅行全体が重かったわけではない。
宮島や厳島神社にも行った。
宮島はとても賑やかだった。
原爆ドームや平和記念公園とは、空気が全然違った。
人も多い。観光地らしい明るさがある。厳島神社は海の上にある雰囲気が印象的で、神社の中でも華やかに感じた。
原爆ドームや平和記念公園が「向き合う場所」だとしたら、宮島や厳島神社は「観光として楽しめる場所」だった。
この対比も、広島らしさなのかもしれない。
広島には、楽しいだけでは片づけられない場所がある。
でも、楽しい場所もちゃんとある。
だからこそ、旅行として成立するし、同時に、ただの観光では終わらない。
個人的には、広島旅行の難しさと魅力は、この両方があることだと思う。
牡蠣を見た友人の反応に、食文化の違いを感じた
宮島では、牡蠣も印象に残っている。
広島といえば牡蠣というイメージがある。
でも、友人は牡蠣に対して、「よくそんな気持ち悪い物を食べるな」というような目で見ていた。
海鮮も苦手そうだった。
その友人は、アメリカ人の中では何でも食べる方だったと思う。
それでも、牡蠣や海鮮には抵抗があったらしい。
この場面は、今思うと少し笑える。
原爆ドームや平和記念公園では重い沈黙があり、記念碑の前では “Good!” の意味を聞けなかった。
でも、宮島では牡蠣を見て引いている友人がいた。
同じ広島旅行の中に、こういう軽い文化差もあった。
だから、この旅行は「重い旅行」だけではなかった。
ちゃんと楽しかった。
ただ、楽しいだけでは片づけられない時間もあった。
その両方があったから、今でも記憶に残っているのだと思う。
まとめ|それでも親友同士で広島を歩ける時代に感謝したい
アメリカ人の友人と広島へ行ったことで、何か分かりやすい答えが出たわけではない。
原爆ドームや平和記念公園で、普段よく話す友人が静かだったこと。
記念碑の前で “Good!” と言ったこと。
その意味を聞こうと思ったけれど、聞けなかったこと。
どれも今でも記憶に残っている。
“Good!” の意味は、今でも正確には分からない。
ただ、複雑な感情がありながらも出た、アメリカ人特有の言葉だったのかもしれない。
そこを深掘りするのは、少し野暮だったのかもしれない。
むしろ大事なのは、かつて「落とした側」と「落とされた側」と言えてしまう国の人間同士が、今は親友として広島を歩ける時代になったことなのだと思う。
それは、当たり前のようで、当たり前ではない。
一人で広島を見ると、自分の内側に向き合う感覚があった。
アメリカ人の友人と広島を見ると、相手の反応が気になり、日本人として複雑な感情になった。
同じ原爆ドームでも、誰と見るかで感じ方は変わる。
この旅行は、広島を外国人の友人と歩いた思い出であり、同時に、日本人としてどう受け止めればいいのか分からない感情が残った旅行でもあった。
旅行全体としては楽しかった。
宮島や厳島神社も楽しめた。
でも、原爆ドームと平和記念公園だけは、楽しいだけでは片づけられない時間だった。
次の記事では、一人で見る広島と、外国人の友人と見る広島は何が違ったのかを整理してみたい。



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